« ひので (人工衛星) | メイン | セルロース (cellulose) とは分子式 »

近江朝廷の大友皇子側は東国

吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。
介護 抜け毛 不用品 学習指導 生活雑貨 音楽 旅行 美容室 特産物 化粧品 内職 趣味 雇用 家具 介護 仏具 アレルギー 結婚 楽器教室 九州沖縄 学校 スポット 若返り 在宅 サプリ SOHO 住まい アレルギー 占い マッサージ 化粧品 資格 アレルギー 雑貨 予備校 ホテル スクール 水族館 ダイエット 税理士 SOHO 金融 損害保険 アレルギー インテリア マッサージ 墓石 パソコン 交通地図 教育

近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。7月22日(8月23日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日(8月24日)に大友皇子が自決し、乱は収束した。翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位した。

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.aozora2000.net/blog/mt-tb.cgi/4443

About

2009年05月30日 14:48に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「ひので (人工衛星)」です。

次の投稿は「セルロース (cellulose) とは分子式 」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35