2009年06月16日

セルロース (cellulose) とは分子式

セルロース (cellulose) とは、分子式 (C6H10O5)n で表される炭水化物(多糖類)である。植物細胞の細胞壁および繊維の主成分で、天然の植物質の1/3を占め、地球上で最も多く存在する炭水化物である。繊維素とも呼ばれる。自然状態においてはヘミセルロースやリグニンと結合して存在するが、綿はそのほとんどがセルロースである。

セルロースは多数のβ-グルコース分子がグリコシド結合により直鎖状に重合した天然高分子である。構成単位であるグルコースとは異なる性質を示す。いわゆるベータグルカンの一種。
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フランスの生化学者、アンセルム・ペイアン (Anselme Payen)によって1838年に発見された。

1991年小林四郎らによって、セルラーゼを利用した酵素触媒重合により初めて人工合成に成功した。

冷水にも熱水にも溶けない。
汎用有機溶媒にも溶けない。
「セルロース溶剤」としていくつかの溶剤が見い出されている。また、誘導体化により溶媒溶解性を付与することもできる。
結晶多形を示す。
25MPaの圧力のもと、結晶性のセルロースを水の中で320 ℃まで加熱すると無定形へと転移する。

化学的性質 [編集]
セルロースはβ-グルコースが重合したものであり、分子は水素結合によってシート状になっている。これに対し、α-グルコース分子が重合したデンプンは水素結合によるらせん状になっている。セルロースはヨウ素デンプン反応を示さない。デンプンと同じくグルコース分子を構成単位としながら、セルロースがヨウ素デンプン反応を示さないのは、この反応が分子の形状に由来する。また、セルロースは非常に安定で、酸や塩基に対して強い抵抗を示す。セルロースの分解には硫酸や塩酸が用いられるほか、酵素のセルラーゼが用いられる。リグニンと結合したセルロースは単独状態よりもさらに化学的に安定であるため、分解は非常に困難であり、工業的な利用を妨げている。

2009年05月30日

近江朝廷の大友皇子側は東国

吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。
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近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。7月22日(8月23日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日(8月24日)に大友皇子が自決し、乱は収束した。翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位した。

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

2009年04月27日

ひので (人工衛星)

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第22号科学衛星ひので(SOLAR-B)は、日本の国立天文台 (NAOJ) と宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部 (JAXA/ISAS) がアメリカのNASA、イギリスのPPARCと共同で開発した太陽観測衛星である。
ひのでは先代の太陽観測衛星「ようこう」の観測成果をさらに発展させることを目標に開発された。「ようこう」は太陽表面活動と太陽磁場との関係について多くの発見をしており、その後もESAとNASAが共同で開発した太陽観測衛星「SOHO」やNASAの「TRACE」によって詳細な研究が行われているが、当機ではその延長としてコロナ加熱問題や、太陽フレアなどコロナ内部における爆発現象の発生過程の解明、特にそれらの太陽磁場の微細構造との関係を詳細に掘り下げて調べることが主な目的である。

実用的な目的としては、宇宙天気予報の基礎を築くことが挙げられる。フレアによって放出された宇宙プラズマは地球磁気圏との相互作用によって磁気嵐を発生させ、これらが人工衛星の故障や宇宙飛行士の健康被害、無線通信障害、送電線の異常電流などの原因となっている。2004年から2008年にかけて、CAWSESという宇宙天気予報のための国際的な取り組みがなされており、そのなかで当機は特に、フレアの発生を予測できるようになるための基礎研究に役立つと期待された。

2009年04月11日

対日照

対日照とは、天球上で太陽とほぼ反対側に見える、黄道光に続くやや明るい、面積を持った光芒。読みは「たいにちしょう」「たいにっしょう」「たいじつしょう」等、様々なものが流布している。本来肉眼で見やすい現象だが、天の川よりかなり淡い光の為、夜間の人工光がほとんどない地域でないとほとんど見えない。日本のように光害で夜空が極端に明るい地域で観測されるのは極めて稀である。

対日照の正体 [編集]
対日照は、地球軌道に近い宇宙空間に存在する、主としてセンチメートルからマイクロメートルオーダーの塵が太陽光を散乱しているものであると考えられている。すなわち、対日照は黄道光の一部である。地球から見て太陽と反対側にある塵は満月と同様に太陽光を正面反射しているため、この付近の塵が特に明るく見える。

対日照の原因としては他にも、地球の高層大気が太陽風に吹き流されて作る「地球の尾」の励起光であるという説や、太陽?地球との間で重力の制限三体問題の直線解の関係になる位置に塵が多く集まっていて、それが見えているという説もあった。しかしこれらは地球を遠く離れた惑星探査機から、地上観測と同じ方向に対日照が観測されることからほぼ否定された。

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2009年03月27日

ヴァイキング

ヴァイキング(英:Viking、独:Wikinger)とは、8世紀から300年以上に渡って西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィアの武装船団(海賊)を指す言葉であったが、後の研究の進展により「その時代にスカンディナヴィア半島に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残した。

トール・ヘイエルダール(ノルウェーの考古学者)が述べたように、ヴァイキングは海賊・交易・植民を繰り返す略奪経済を生業としていたのではなく、故地においては農民であり漁民であった。特に手工業に秀でており、職人としての技量は同時代においては世界最高のレベルであった。

古ノルド語:vikingr (アイスランド語:víkingur) フィヨルドから来たもの(古ノルド語 vik, アイスランド語 vík:湾、入り江、フィヨルド)

背景 [編集]
どうして彼等が域外へと進出したのかについては下記のような学説がある。

1.現在の通説

ヴァイキングは元々通商・貿易を業としていた民族である。そのためヴァイキングは、中世のヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東を中心とした異民族・異人種との交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していった、とされるものである。

2.その他の説

進出の原因を求める説の一つに、人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたとされる。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなかったし、デンマークでは平坦地はあったが、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になった、という仮説が有力と考えられたこともあった。しかし生産性が低く、土地が貧しいのなら、出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。
むしろ逆で、中世の温暖期が原因ではないかとされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、出産制限も何もない時代では、一度上昇し始めた出生率は、歯止めが利かずに増え続け、域外へと進出することを招いたと言う説である。
大陸ヨーロッパでは中世の暗黒時代の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに付け入る隙が大いにあった、という説も原因として挙げられることが多い。
一方、原因とは別に、能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかった、というものである。原因は、特にない。なぜなら、域外進出をしたがるのは、あらゆる民族に共通するためである。たとえば、アフリカで発祥した人類が、南欧から北欧へ、あるいは、アジアや北米へ進出した、というようなものである。このような域外進出は、いつの時代、どの民族、どこ地域でも見られるので、当り前のことであり、ことさら原因は必要ではなく、あとは、その能力があるかどうかの問題、というものである。
ルーズ リング このゆび セラピー マンタ ドッグフ リルック プッシュ ファンド 水晶パート キバナ ピラフ 時の雫 ドリブル トポス ミキシング ちょぼく ラリアン ブログ タティック リューマチ アーミン ラクターゼ ヨットレ ロケア ファイユ ラケット きつおん タービン マドン アルカイ ナビタラワ ブレザー ブルジ オルグゴン トラン ナビロト スキルア クロニ スタン オーバ リスク ドック サイト スティッ きくま パシフ チルバ カツ上 カウボーイ

ヴァイキングの舟 [編集]
ヴァイキングは「ロングシップ」(オーセベリなどでいくつか完全に発掘されている)と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。このため、アングロ・サクソン人諸王国や大陸のフランク王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を蒙ることになる。ヴァイキング船については、ノルウェーのオスロ郊外ビュグドゥイ、およびデンマークのロスキレにある「ヴァイキング船博物館」が中心となって研究がおこなわれている。また、ヴァイキングには、船を副葬にする慣習もあったという。

初期のヴァイキング [編集]
西暦700年代末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島やフリースラントへの略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。793年には北部イングランドのリンデスファーン修道院、795年にはヘブリディーズ諸島のアイオナ修道院を略奪している。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。

2009年03月11日

コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観

コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観は、イギリス南西部のコーンウォール州からデヴォン州西部にかけてのいくつかの鉱山景観を対象とするユネスコの世界遺産の一つである。2006年にヴィリニュスで開催された第30回世界遺産委員会で登録された。一帯の景観は18世紀から19世紀に銅やスズの深い鉱脈を採掘していったことによって、根源的な変貌を遂げた。地下鉱山、エンジン・ハウス、鋳造所、ニュータウン、小さな畑、港湾、関連産業群などは、いずれも19世紀初頭には世界で供給される銅の3分の2を産出するまでになった豊かな技術革新を反映するものとなっている。

この地の鉱業はスズの鉱山開発からはじまった。1500年代半ばに至るまで、デヴォンで産出するスズの量はコーンウォールの25-40%だったが、この時点では両地域の産出量を合計したところで相対的に少ないものだった。1540年代以降には、コーンウォールの生産量は飛躍的に伸びたが、デヴォンのそれはコーンウォールの9分の1ないし10分の1にとどまった。16世紀半ばにはデヴォンのスズ鉱山は王家の収入にとって微々たる物となった。

1800年代後半には、砒素の産出が突出しており、コーンウォール東部からデヴォン西部にかけての産出量は、当時の世界的な需要の半分にあたっていた。19世紀初頭には、蒸気機関での革命も起こり、堅い岩盤での採鉱を一変した。技師リチャード・トレビシックによって発達した高圧の揚水機関(The high-pressure expansively operated beam pumping engine)は、従来よりも遥かに深く採掘することを可能にした。 同じころから、コーンウォールの伝統に根ざした鉱山労働者たちが他へ移住し、コミュニティを形成することが見られ始め、その流れは19世紀末に頂点に達した。今日、コーンウォールからの移民に起源を持つコミュニティは世界中に見られ、コーンウォール様式のエンジンハウスも、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、チャネル諸島、マン島の鉱区にとどまらず、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、メキシコ、スペインなどでも目にすることができる。

1860年に銅の暴落が起こると、スズの生産が中心となり、以降コーンウォールでの鉱業は衰退の途を辿った。 コーンウォール地方の鉱山は、ヨーロッパで最後まで採掘していたスズ鉱山であるプール(Pool)のサウス・クロフティ鉱山が1998年に閉山されたことをもって、幕を閉じた。
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地域
世界遺産の対象になっているのは、地理的に離れているが相互に関連性のあるコーンウォールと西デヴォンの以下の場所である[1]。

A1 - St Just Mining District
A2 - Port of Hayle
A3i - Tregonning and Gwinear Mining District
A3ii - Trewavas
A4 - Wendron Mining District
A5i - Camborne and Redruth Mining District
A5ii - Wheal Peevor
A5iii - Portreath Harbour
A6i - Gwennap Mining District
A6ii - Perran Foundry
A6iii - Kennall Vale
A7 - St Agnes Mining District
A8i - Luxulyan Valley
A8ii - Charlestown
A9 - Caradon Mining District
A10i - Tamar Valley
A10ii - Tavistock

2009年02月23日

グジャラート語

グジャラート語(グジャラートご、??????? [?u???r??ti?]: グジャラーティー)はインド西部のグジャラート州の公用語である。インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属す。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

世界で4600万人が話し、世界で23番目に話者の多い言語である。そのうち、約4550万人がインドに、約15万人がウガンダに、約5万人がケニアに、おおよそ10万人がパキスタンに住んでいる。グジャラート語はグジャラート州におけるのと同様、隣接する連邦直轄地域のダマン・ディーウ、ダードラー及びナガル・ハヴェーリーの主要な言語である。

英国と北米にもグジャラート語の話者が多数いる。英国ではレスター(ミッドランド)とロンドン北部のウェンブリーがグジャラート語のポピュラーな地域である。アメリカでは、ニュージャージー州、ニューヨーク州、カリフォルニア州とテキサス州でグジャラート語がポピュラーである。世界に広くグジャラート語の話者が広がっているために、公式用語である非在住インド人(Non Resident Indian: NRI)と呼ばれるよりは、非在住グジャラート人(Non Resident Gujarati: NRG)と冗談で呼ばれることもある。

グジャラート語は「インドの父」マハートマー・ガーンディーと「パーキスターンの父」ムハンマド・アリー・ジンナーの母語である。

歴史
グジャラート語の歴史は12世紀にまで遡ることが出来る。この言語のさきがけとなった文法書は、アンヒルワーラー (Anhilwara) のラージプートの王シッダラージ・ジャヤシン (Siddharaj Jayasinh) の治世のジャイナ教の僧であり、高名な学者であった、ヘーマーチャンドラーチャーリヤ (Hemachandra-charya) によって書かれたものである。これはアパブランサ (Apabhransa) 文法と呼ばれ、サンスクリット語とアルダ・マガディー (Ardha-magadhi) のような間違いの多い形をあらわしていた。

もっとも古い文学作品は口頭伝承で伝えられているもので、17世紀の2人の熱烈な支持者、クリシュナの崇拝者と偉大な平等主義者のナラシンハ・メへター (Narasinh Mehta) に起源が遡れる(後にガーンディーの発想の基となった)。ナラシンハ・メヘター自身の話はプレーマーナンダ (Premananda) の長い語りに編集されており、偉大な詩人を意味する"maha-kavi"(“マハー・カヴィ”)と現代の言語史研究者たちに認められている。彼が生きていたのは、おそらく17世紀末である。その他には、多数の詩人がバクティと現在では呼ばれているヒンドゥー教の信仰活動のなかで活躍した。

プレーマーナンダは"vyakhyan-kar"(“ヴィヤキヤン-カール”)と呼ばれる吟遊詩人で、題材を詳しく何行もの歌にのせて語った。語りが流暢であったので、何百行にもわたる歌も人々の記憶に残り、朝のお勤めまで歌われた。この意味では、インドにはもっと古いヴェーダの伝統がかなり後まで残っていたのは確かである。

グジャラート地方と言語への近代的な調査は英国の行政官アレクサンダー・フォーブスによる。19世紀にこの土地の過去千年の歴史を調べ、多数の手写本をまとめた。グジャラート語を扱っている学術団体で、彼にちなんだ名前のついているファーバス・グジャラーティー・サバー (Farbas Gujarati Sabha) はムンバイーに本部がある。

地理的分布 公式な地位
グジャラート州の公用語である。

方言
多くの言語と同じように、多少なりとも異なったところのある地方的な方言がある。

派生言語
カッチ語

語彙
今日話されているグジャラート語は、イスラム教徒のスルタンの5世紀にわたる統治のために、他のインドの言語同様アラビア語、ペルシア語から多数の語彙を取り入れている。これは多くは世俗的、または非宗教的分野である。グジャラート語の他の要素は上の方言に記した各地域の地元の住民から多くの単語を取り入れている。

筆記法
デーヴァナーガリー(サンスクリット語やヒンディー語を書くのに使われる文字)によく似たグジャラート文字で書かれるが、頭に横線(シローレーカー)がないほか、いくつかの違いがある。

2009年02月07日

細川頼春・細川持之・細川勝元

細川 頼春(ほそかわ よりはる、1304年(嘉元2年)? - 1352年4月5日(正平7年/文和元年閏2月20日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将である。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の庶流 細川氏。父は細川公頼。兄弟に細川和氏、細川師氏。妻に里沢禅尼ほか。子に細川頼之、細川頼有、細川頼元、細川詮春、細川満之。名は源九郎。蔵人、刑部大輔、讃岐守、官位は従四位下。生年は1299年(正安元年)とも。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

鎌倉時代後期の1333年(元弘3)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、細川氏は足利尊氏の挙兵に参加している。建武の新政において蔵人となる。中先代の乱を契機に尊氏が建武政権から離反すると細川氏も従い、九州へ落ちる際には四国へ分遣される。細川氏は四国を平定して湊川の戦いなどで戦い、頼春は京都内野での戦いや、南北朝成立後には斯波高経らに従い北陸落ちした南朝の新田義貞攻めなどに従軍する。

足利氏の武家政権においては1338年に阿波国、備後国の守護となり、鎌倉時代には守護であった小笠原氏を傘下に治める。さらに南朝の脇屋義助の死に乗じて伊予国(愛媛県)へ進攻して大館氏らを駆逐し、伊予の豪族であった河野氏と対立する。のちに足利政権において尊氏の弟である足利直義と尊氏、執事の高師直との対立から内紛に発展した観応の擾乱が起こると頼春は師直派に属し、直義派であった斯波高経から越前国の守護職を奪取する。そのため斯波氏と対立するようになり、この対立は後に管領となる子の頼之の代にまで影響する。

頼春はこの頃九州で反乱した尊氏の子で直義派の足利直冬の討伐に従軍し、師直がクーデターで直義を失脚させると従兄弟の顕氏が出奔したために追討に向かう。直義が南朝に属して軍事的優位に立つと、頼春は対抗のために分国の阿波国へ下り、紀伊水軍の安宅氏を地頭職に任じるなど国人の被官化を行うが、一宮氏など小笠原氏一族の反抗にあい、南朝方に与した小笠原氏との対立は子の頼之の代まで続いた。1352年に 南朝の楠木正儀、北畠顕能、千種顕経らが京都へ攻勢をかけると頼春は尊氏の子の足利義詮を守り、七条大宮付近で戦死する、享年49、もしくは54。

細川持之
細川 持之(ほそかわ もちゆき、応永7年〔1400年〕 - 嘉吉2年8月4日〔1442年9月8日〕)は、室町時代の守護大名で室町幕府管領。父は細川満元。兄弟に細川持元、細川持賢。子に細川勝元。名は弥九郎。官位は中務少輔、右京大夫。官位は従四位下。摂津国、丹波国、讃岐国、土佐国の守護。

1432年(永享4)に斯波義淳のあとを受けて管領に就任し、6代将軍足利義教が専制政治を行うなかで管領職を務め、関東地方で発生した1438年(永享10)永享の乱、結城合戦にも対応する。1440年に赤松満祐が、結城合戦祝勝会で義教を暗殺した際には、持之は同席していたが難を逃れている。義教暗殺後は幼い嫡子の足利義勝を将軍に就任させ、諸将を結集させて赤松氏を討伐する(嘉吉の乱)。その後は管領職を辞任して出家し、幕政では畠山持国が台頭する。1442年に死去、享年42。

細川勝元
細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の守護大名、室町幕府の管領、三管領のひとつである細川家嫡流・京兆家の当主。官位は右京大夫従四位下。父は細川持之、正室は山名熙貴の娘・春林寺殿(山名宗全(持豊)の養女)。子は細川政元、洞松院(赤松政則室)、養子に山名豊久、猶子に細川勝之がいる。

永享2年(1430年)、細川持之の嫡男として生まれる。幼名は聡明丸。

嘉吉2年(1442年)8月、父の持之が死去したため、13歳で家督を継承した。このとき第7代将軍・足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて摂津国、丹波国、讃岐国、土佐国の守護職となった。

文安2年(1445年)、畠山持国(徳本)に代わって16歳で管領職に就任すると、以後3度に渡って通算23年間も管領職を歴任し、幕政に影響力を及ぼし続けた。勝元が管領に就任していたのは、文安2年(1445年)から宝徳元年(1449年)、享徳元年(1452年)から寛正5年(1464年)、応仁2年(1468年)2月から死去する文明5年(1473年)5月までである。

勢力争い
応仁の乱で敵対関係に至ったため、細川勝元と山名持豊(宗全)は不仲であったとされているが、はじめはそうではなかった。当時、細川家は一族全てで9ヶ国の守護であったのに対し、山名氏は赤松氏を嘉吉の乱で滅ぼした功績から旧赤松領を併せて8ヶ国の守護になっていた。このため、勝元は持豊と争うことは得策ではないと考え、持豊の養女を正室に迎えることで協調することにしていたのである。

そのため、畠山氏で家督をめぐる内紛が起こったときには、政敵である持国を失脚させるため、舅にあたる山名持豊ともに畠山弥三郎(持国養子)を支援して持国の推す畠山義就(持国実子)を追放に追い込んだ。しかし第8代将軍・足利義政や勝元が嘉吉の乱で没落した赤松氏の再興を支援しようとすると、赤松氏の旧領を守護国に持つ持豊は赤松氏の再興に強硬に反対した。このため、持豊は義政から追討を受けそうになるが、このときは勝元が弁護したため、持豊は追討を免れた(この前後に持豊は出家し、宗全と名乗った)。

しかし山名氏の勢力が勝元の想像以上に急速に拡大したため、勝元は宗全の勢力拡大を危険視するようになり、斯波氏の家督争い(武衛騒動)でも姻戚関係から斯波義廉を支持する宗全に対し、勝元は義廉と対立する斯波義敏を支持した。また、宗全がかねてから反対していた赤松氏の再興問題に関しても、勝元は積極的にこれを支援し、ついには赤松政則(赤松満祐の弟赤松義雅の孫)を加賀半国の守護と成し、赤松家を再興させたのである。さらに勝元は勘合貿易の問題から大内教弘、河野通春らと敵対していたが、宗全はこれを支援するなどしたことから、細川と山名の対立構造が生じ始めた。また、はじめ継嗣がいなかった勝元は、宗全の子・山名豊久を養子にしていたが、文正元年(1466年)に実子細川政元の誕生後、豊久を廃嫡して仏門に入れるなど、関係の悪化は明白となった。

文正元年(1466年)、足利義政に実子の足利義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まる。このとき、義政の側近・伊勢貞親は義政が当初後継者に指名していた足利義視の廃嫡と、義尚の将軍後継を義政に提言した。しかし義視を支持していた勝元はこれに反対する。さらに宗全も貞親が幕府内において権勢を強めていたことを苦々しく思っていたことから、このときは勝元に賛同し共に義政に対して貞親追放を訴え、これを強硬に実現させた(文正の政変)。

これにより将軍家内部で実力者がいなくなると、山名宗全は12月、追放されていた畠山義就を上洛させ、義政に仲介して赦免の許しを出させた。さらに宗全は応仁元年(1467年)1月、義政に強請して勝元が支援する畠山政長(持国養子で弥三郎の弟)の管領職を取り上げて出仕停止処分に処し、代わりに宗全が支援する斯波義廉を管領に任命させたのである。ここに至って、勝元と宗全の武力衝突は避けられないものとなった。

応仁の乱
最初の衝突は、畠山義就と畠山政長が争い、上御霊社で衝突したことから始まった(御霊合戦)。これに対して宗全は後花園上皇・後土御門天皇を確保して義就を支援したのに対し、勝元は義政の命令で畠山家の争いに関与することを禁じられていたため、御霊合戦では静観していた。このため、政長は敗れた。

しかし5月25日、天皇を擁した宗全に対して、勝元は幕府を占領して将軍を擁立し、5月26日には山名方に戦いを挑んだ(応仁の乱)。細川勝元は東軍、山名宗全は西軍である。勝元は将軍・義政から宗全追討令を受領したものの、戦況は互角であった。また、娘婿の赤松政則を支援して山名領へ侵攻させたりした。そして一時は宗全に奪われていた上皇・天皇を確保するなど、次第に戦況は東軍有利に進むが、決定打は出せずにいた。応仁2年(1468年)閏10月、義政が伊勢貞親を復職させると、勝元は義尚を、宗全が義視を支持する立場に変わるなど、戦況も変わってゆく。このような中で文明4年(1472年)、宗全に和平交渉を試みるが、決裂する。

文明5年(1473年)3月に宿敵である宗全が死去して優位に立ったのも束の間、自身も後を追うように5月11日に死去した。享年44。後を子の細川政元が継いだ。

死因は病死と言われているが、一説では山名派による暗殺説もある。

なお、応仁の乱で、勝元の下で活躍した4人の重臣、香川景明(元明)・香西元資・奈良元安・安富盛長の4人を細川四天王と呼ぶことがある。

人物
禅宗を信仰し、龍安寺や竜興寺を建立し、鯉料理などにも精通していた。
自ら医術を研究して医書である「霊蘭集」を著しただけではなく、和歌・絵画にも優れた才能を持つ文化人であった。
政治的才能には長けていたが、それでも応仁の乱を勃発させて国人層の台頭を招くなど、結果として戦国時代の幕を開くことになった張本人の一人であることは間違いない人物である。

官職位階履歴
日付は旧暦

1442年(嘉吉2年)8月 - 細川宗家当主となる。将軍足利義勝の名を一字賜り、勝元と名乗る。併せて従五位下右京大夫に叙任。
年月日不詳 - 武蔵守を兼任。
年月日不詳 - 従四位下に昇叙。
1445年(文安2年)3月29日 - 幕府の管領に就任。
1449年(宝徳元年)10月5日 - 管領を辞任。
1452年(享徳元年)11月26日 - 幕府の管領に再度就任。

2009年01月22日

イラクの南部で黒人奴隷が起こした反乱

869年にカリフのお膝元であるイラクの南部で黒人奴隷が起こした反乱は、バスラ近郊の南イラクに政権を10年以上に渡って存続させるほどの大反乱となり、カリフの権威を大きく損ねることとなった。このような情勢のもとで、10世紀前半には中央政界でも有力なアミールが、大アミール(アミール・アル=ウマラー)を名乗ってカリフにかわって軍事・行政の全権を掌握するようになり、中央政府における政治の実権がカリフから失われた。

同じ10世紀前半に、シーア派の一派イスマーイール派を掲げるファーティマ朝が北アフリカに興った。ファーティマ朝の君主はカリフの称号を名乗り、さらにその対抗上、アンダルス(イベリア半島)にアッバース朝から独立した政権を築いていたウマイヤ家の後裔後ウマイヤ朝の君主がカリフを名乗った。これによりイスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになり、アッバース朝はイスラム世界唯一の指導者としての名目すらも失った。

さらに945年、ダイラム人のブワイフ朝がバグダードを占領し、大アミールの位を授けられると、穏健派として知られるもののシーア派の一派であるザイド派を信奉するブワイフ朝が、アッバース朝のカリフの権威のもと大アミールとしてイラクを支配する異例の政治構造が生まれ、カリフはもはや完全に傀儡に過ぎない存在となった。ブワイフ朝を滅ぼしたテュルク系セルジューク朝のトゥグリル・ベクは、1055年にバグダードに入城、スルタンの称号を授けられてバグダードの支配者としての権利を認められ、カリフ以外の者が政治権力を保持する名分はより確固たるものとされた。この時期のカリフや後述するカイロのアッバース朝カリフはスルタンに世俗の統治権を付与するのみの象徴的最高権威者に過ぎなくなっており、このようなカリフとスルタンとの関係は、日本における天皇と征夷大将軍や西ヨーロッパにおけるローマ教皇と神聖ローマ皇帝の関係としばしば比較される。

セルジューク朝の衰退後、アッバース朝のカリフは各地のイスラム王朝の君主に対するスルタンの称号の授与などを通じてスンナ派世界に対する影響力を誇示し、バグダードを中心とするイラクでも直接支配権の再確立を進めて王朝の立て直しをはかるが、1258年のバグダードの戦いで、モンゴル軍の侵攻によりバグダードが陥落し、カリフムスタアスィムが殺害されて、アッバース朝は滅亡した。

カイロのアッバース朝カリフ
カリフ・ムスタアスィムの親族は、エジプト・シリアを支配したマムルーク朝に保護され、その都カイロで1261年名目上のカリフに立てられた。カイロのアッバース朝カリフは支配権を持たず名目上の存在に過ぎなかったが、マムルーク朝の歴代君主にスルターンの位を授与することで、マムルーク朝の支配権を保障する役割を担った。

1517年、マムルーク朝がオスマン朝のセリム1世に滅ぼされると、アッバース家のカリフはカイロからイスタンブルに連れ去られ、カイロのカリフも消滅した。かつては、このときアッバース家からオスマン家にカリフの位が禅譲され、これ以来オスマン帝国の君主が世俗と宗教の支配者を兼ねるスルタン=カリフ制が生まれたと説明されてきたが、これは19世紀以降に生まれた伝説に過ぎない。近代に自身がカリフであるとオスマン家が公称し始めるまで、スンナ派の大多数の人々に合法的なカリフと認められる者はイスラム世界には存在しなかったのである。 オスマン帝国は東ローマ帝国を滅ぼした後は正教会の保護者でもあり、またメフメト2世やスレイマン1世が「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)と自称したように、当初はイスラム教徒のみを支配するという意識を持っていなかったのである。19世紀になって東方正教圏のギリシャやブルガリア、セルビアなどが独立した後、イスラムおよびトルコ民族の国家という意識が強くなり、スルタン=カリフ制を主張するようになったのである。

歴代カリフ

バグダード・アッバース朝
イランの歴史

ジーロフト
エラム
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルシャク朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国
アブー=アル=アッバース(サッファーフ)(750年 - 754年)
マンスール(754年 - 775年)- 首都バグダードを造営。
マハディー(775年 - 785年)
ハーディー(785年 - 786年)
ハールーン・アッ=ラシード(786年 - 809年) - 最盛期を達成。
アミーン(809年 - 813年)
マアムーン(813年 - 833年) - バイト・アル=ヒクマ(知恵の館)を設立。
ムウタスィム(833年 - 842年)
ワースィク(842年 - 847年)
ムタワッキル(847年 - 861年)
ムンタスィル(861年 - 862年)
ムスタイーン(862年 - 866年)
ムウタッズ(866年 - 869年)
ムフタディー(869年 - 870年)
ムウタミド(870年 - 892年)
ムウタディド(892年 - 902年)
ムクタフィー(902年 - 908年)
ムクタディル(908年 - 932年)
カーヒル(932年 - 934年)
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

ラーディー(934年 - 940年)
ムッタキー(940年 - 944年)
ムスタクフィー(944年 - 946年)
ムティーウ(946年 - 974年)
ターイウ(974年 - 991年)
カーディル(991年 - 1031年)
カーイム(1031年 - 1075年)
ムクタディー(1075年 - 1094年)
ムスタズヒル(1094年 - 1118年)
ムスタルシド(1118年 - 1135年)
ラーシド(1135年 - 1136年)
ムクタフィー(1136年 - 1160年)
ムスタンジド(1160年 - 1170年)
ムスタディー(1170年 - 1180年)
ナースィル(1180年 - 1225年)
ザーヒル(1225年 - 1226年)
ムスタンスィル(1226年 - 1242年)
ムスタアスィム(1242年 - 1258年)

カイロ・アッバース朝
ムスタンスィル (1261年 - 1262年)
ハーキム1世 (1262年 - 1302年)
ムスタクフィー1世 (1303年 - 1340年)
ワースィク1世1340年 - 1341年)
ハーキム2世 (1341年 - 1352年)
ムゥタディド1世 (1352年 - 1362年)
ムタワッキル1世 (1362年 - 1383年)
ワースィク2世 (1383年 - 1386年)
ムウタスィム (1386年 - 1389年)
ムタワッキル1世 (1389年]] - 1406年)
ムスタイーン (1406年 - 1414年)
ムウタディド2世 (1414年 - 1441年)
ムスタクフィー2世 (1441年 - 1451年)
カーイム (1451年 - 1455年)
ムスタンジド (1455年 - 1479年)
ムタワッキル2世 (1479年 - 1497年)
ムスタムスィク (1497年 - 1508年)
ムタワッキル3世 (1508年 - 1517年)

2009年01月15日

三湖伝説(さんこでんせつ)

マリゴール ユーロシ 法則 プロキオ パティ フェンリル ロボコン プラン とうみ ドロン デザイナー ひかわ ウンギョー クロスバー デリシ 宿儺南瓜 フロアマ バナバ ぶどう ハツユ ァサード パイ セミダブル ミコロン スキャンダル ピザク トライアル ギンリ ビコル カデット ブレーン エイド ヒート フロアス エーエスピ シュリン くわい サイト冬瓜 紀州 レーシ うたしない ベジス ブック ノベル ジャル ワイフ ニュー フリ モラテオ はっとう

三湖伝説(さんこでんせつ)は青森県、岩手県、秋田県にまたがる伝説。主に秋田県を中心として語り継がれている。異類婚姻譚、変身譚、見るなのタブーの類型のひとつ。各地にこの物語が残されているが、細部は異なっている。

鹿角郡の草木(くさぎ)村(現・秋田県鹿角市十和田大湯草木地区)に八郎太郎(はちろうたろう)という名の若者が暮らしていた[1]。

八郎太郎は村の娘と旅の男との間の息子で、父親は寒風山で竜に姿を変えて消えたと言われており、母親は難産で死んでいたので祖父母に育てられ、マタギをして生活していた。

しかしある日仲間の掟を破り、仲間の分のイワナまで自分一人で食べてしまったところ、急に喉が渇き始め、33夜も川の水を飲み続け、いつしか33尺の竜へと変化していった。自分の身に起こった報いを知った八郎太郎は、十和田山頂に湖を作り、そこの主として住むようになった。この湖が十和田湖である。

三戸郡の斗賀村(現・南部町)に南祖坊(なんそのぼう)という男が住んでいた。

南祖坊は諸国で修行をした後、熊野で「草鞋が切れた場所が終の棲家になる」との神託と鉄の草鞋を授かり、十和田湖で草鞋が切れたため、八郎太郎に戦いを挑んだ。南祖坊と八郎太郎は7日7晩戦った。南祖坊は勝者となって十和田神社に祀られることとなった。

八郎太郎は米代川を通って逃げ、途中七座山の辺で川を堰止め湖を作ろうとしたが、地元の7柱の神々の使いの白鼠に邪魔され、更に下流へと向かった。その際、白鼠を食べようとする猫を紐でつないでおいた地区が能代市二ツ井町小繋(こつなぎ)地区である。[2][3]

日本海附近まで来て、ようやく湖を作る適地が見つかったので、その支障となる天瀬川(あませがわ)(現・秋田県三種町天瀬川)の老夫婦の家を訪ね、明朝鶏が鳴くと同時に洪水が来るから避難するようにと伝え、湖を作り始めた。しかし姥は逃げる途中で麻糸(糸巻きという話もある)を忘れてきたことに気づき取りに戻った。そのとき、鶏が鳴き夫婦は逃げ遅れたため、八郎太郎はそれぞれ別々の岸へと放り投げて助けた。夫は湖の東岸に、妻は北西岸に祀られている[4]。出来上がった湖が八郎潟である[5]。

仙北郡の神成村に辰子(たつこ)という名の娘が暮らしていた。

辰子は類い希な美しい娘であったが、その美貌に自ら気付いた日を境に、いつの日か衰えていくであろうその若さと美しさを何とか保ちたいと願うようになる。

辰子はその願いを胸に、観音菩薩に百夜の願掛けをした。必死の願いに観音が応え、山深い泉の在処を辰子に示した。そのお告げの通り泉の水を辰子は飲んだが、急に激しい喉の渇きを覚え、しかもいくら水を飲んでも渇きは激しくなるばかりであった。

狂奔する辰子の姿は、いつの間にか竜へと変化していった。自分の身に起こった報いを悟った辰子は、泉を広げて湖とし、そこの主として暮らすようになった。この湖が田沢湖である[6]。

悲しむ辰子の母が、別れを告げる辰子を想って投げた松明が、水に入ると魚の姿をとった。これが田沢湖のクニマスの始まりという。

八郎太郎は、いつしか辰子に惹かれ、田沢湖へ毎冬通うようになった。辰子もその想いを受け容れたが、ある冬、辰子の元に南祖坊が立っていた。辰子を巡って再度戦った結果、今度は八郎太郎が勝ちを収めた。

それ以来八郎太郎は冬になる度、辰子と共に田沢湖に暮らすようになり、主が半年の間いなくなる八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったのだという

人間に姿を変えた八郎太郎の旅の途中、彼を泊めた旅籠では夜の間彼の部屋を見てはならないと言い含められ、覗き見た宿は必ず不幸に合うと言われていた。

いつしか時は流れ、八郎潟が干拓された今では、八郎太郎は一年中田沢湖に住んでいると言われている。

付随する伝承等
^ 八郎太郎については、津軽地方で八郎、南部地方 (青森県)で八太郎という異名が伝わっている。
^ この部分は津軽地方、岩手県北上地方、鹿角市十和田地区などでは地元の川を堰止めて湖を作ろうとしたことになっている。鹿角市十和田地区では、男神山と女神山の間をぬうように流れる米代川をせき止めようと、八郎太郎は近くの茂谷山をひもを使って動かし、男神山と女神山の間をせき止め鹿角に自らのすみかを作ろうとした。鹿角の42人の神々はこれを知って驚き、大湯の西の方に集まって評定した。大湯環状列石の北西にある集宮(あつみや)神社はこのときに神々が集まった場所とされる。神々は八郎太郎へ石のつぶてをぶつけることに決め、石を切り出すために花輪福士の日向屋敷にいた12人の鍛冶に金槌、ツルハシ、鏨などを沢山作らせ、牛に集宮まで運ばせた。途中あまり重たいので血を吐いて死ぬ牛がおり、そこは乳牛(チウシ)と現在呼ばれている。これに気づいた八郎太郎は、すみかをつくることをあきらめて茂谷山の中腹にかけた綱をほどいたが、その跡は現在も段になって残って見えるとされる。岩手県北上地方では、雫石川をせき止めて湖を作ろうとし、山を運んだ。完成大詰めの8つめの山である負森山を背負うところまで進んだが、地元の権現に説得されて、計画を中止したという。
^ 江戸時代のこの地区の古文書に次のような記載がある。「大同2年(807年)六月二十一日、潟の八郎という異人が七倉山の所で米代川をせき止め、鷹巣盆地は三年にわたって水底となった」(長崎七左衛門「文化十四年丑六月洪水記録」より)
^ 八郎潟北西岸に祀られている妻は三種町芦崎の姥御前神社の祭神、夫は八郎潟町の「夫殿の岩窟」(おとどののいわや)の祭神である。夫殿の岩窟は現在国道7号線からも見ることができる大きな岩穴で、大昔ここが海岸だった時代の波の穴と言われている。また、縄文時代には住居としても使われている。また、芦崎地区では夫婦別れの原因となった鶏を不吉なものとして忌み嫌い、他の地区に行っても卵も食べない人が多かったが、敗戦のショックからその風習も廃れていったという。芦崎の地名は八郎太郎の「足の先」から名付けられたとも言われる。八郎潟が作られた日時は大同2年二月二十四日とされ、鷹巣盆地の日時と矛盾するが、水神系の祭日が二月二十四日に多く、大同2年は天台宗の慈覚大師伝承や坂上田村麻呂伝承によく使われる年号で、「物事の起きた年」という意味合いであるとする人もいる。
^ 八郎太郎には、男鹿半島の一の目潟の女神に惚れ、一の目潟に棲もうとした伝説もある。しかし男鹿真山神社の神職で弓の名人であった、武内弥五郎に片目を射られ撤退したという。
^ 辰子は仙北市の御座石神社(ござのいし-)に祀られている。
^ 後に八郎太郎が辰子と暮らすようになった時、噂を聞きつけた南祖坊が再び八郎太郎へ戦いを挑んだ際、辰子がクニマスを南祖坊へ投げつけ、松明に戻ったクニマスにより南祖坊が火傷を負い、撤退した話が伝わっている。また、八郎太郎が、田沢湖の辰子姫のもとへ通ったとき、湖に落としてしまった松明がクニマスになったと言う話もある。
^ 辰子と田沢湖に暮らす以前から、八郎潟が冬になると凍ってしまう事から凍る事の無い一の目潟の女神に一緒に住むことを申し込むがかなわず、渡り鳥から自分と同じく竜となってしまった辰子の存在を知り、辰子に求愛する民話もある。
^ 秋田県仙北市の浮木神社では、毎年11月9日に夜を徹した宴会を開く。これは、八郎太郎が湖に飛び込む音を聞くと死ぬため、聞かないようにするためという。